「場面緘黙という愛憎」

表題は「かんもくの声」(入江沙代著・学苑社刊)の中の一節です。

『私にとって場面緘黙は、愛憎でもある。場面緘黙は、私の物心ついてからの人生を完全に支配してきた。その間ずっと、私という存在は閉ざされ、隠されてきた。そういった場面緘黙への憎しみがある。そして、私はあまりにも長いあいだ場面緘黙と一緒に過ごしているという愛着もある。場面緘黙でない私は私ではないし、場面緘黙を忘れることは、私の人生の大半を忘却することに等しい。』

私の場合は不思議と「憎」は全くありません。緘黙バリバリの時もです。早い段階で話すのを諦めてしまったというのもあるのでしょうが、従容と緘黙という運命を受け止めていたように思います。

以前、Twitterで当事者の方が「緘黙のクソ」と呟いたのを読んだ時は私の人生というか、私自身が否定された気分になりました。

この感情は私自身にもよく判りません。緘黙時代のエピソードを思い出すと自然と涙がこぼれてくる事もあります。でも「憎」にはなりません。もっとも「愛」「愛着」でもありません。

もっとより自然な存在、自分の手足のような・・・そんな存在です。この歳になってもこのブログを書いているくらいですから死ぬまで私から離れる事はないでしょう。

緘黙だったが故に見えた景色、うつ病だったが故に見えた景色、パニック障害だった故に見えた景色、それは誰でも見る事の出来る訳ではない貴重な景色です。

それらの景色を見なくて済む人生が必ずしも幸せなのだろうか?何事にも気付かずに生きていく人生には意味がありません。

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